その写真を見たとき、少女の目から訳もなく涙がこぼれた。
鈴なりに実ったりんごの木の写真。手に持っていたそれを裏返すと、十五年前の日付と撮影者のものと思しきイニシャルが書いてあった。
少女が生まれるはずだった日。写真が撮られるはずだった日。
彼女は今日も暗闇に独りきり。
一旦閉じた瞼を再び開いたとき、少女は全てを理解した。
実際に体験したことがない出来事だが、あの日実際に起こった出来事が目の前を通り過ぎる。
それは突然起こった人災。数多の人がそこにいた。煙が上がり崩れ落ちる建物。建物から脱出しようとする人々。瓦礫が散乱するなか避難する、付近にいた人々。阿鼻叫喚、声なき悲鳴、怒号。記録しようとする者。瓦礫の下敷きになる者。救おうとする者。そして、神への祈り。
落下してくる瓦礫をタクシーが受け止める。そのタクシーに、避難しようとした人がまだ乗っているとも知らずに。
「大丈夫?」
声が聞こえた少女は、その瞬間惨劇の映像と別れた。無意識に抱えていた頭を上げると一人の女性がそこにいた。
初めて少女は独りきりではなくなった。
年齢は四十代後半くらいだろうか。優しい雰囲気をまとっていた。
「……大丈夫、です。ちょっと嫌なものを見ただけ。あの、あなたも――?」
少女の言葉に女性が首肯する。
「そう、私も。あなたとは時代も場所も違うけれどね。そろそろここから歩き出そうとしたらあなたを見かけてね、思わず声をかけたの」
女性は、少女が持っていた写真に目を留め、嬉しそうな声をあげる。
「お母さんが撮るはずだった写真だ。私のお母さんになるはずだった人は趣味で写真を撮っていたのよ。結局それは撮られることはなかったけれど。でもあなたが持っていてくれたのね、ありがとう」
「気が付いたら手に持っていたの。あの、ここから出ることができるの?」
「できるのよ。自分が望みさえすれば。そう、望みさえすればなににだってなることができるのよ」
そう言いながら女性は、次々と姿を変える。老婆の姿に。少女の姿に。赤ん坊の姿に。少年の姿に。男性の姿に。
「何者にもなれなかった私たち。だからこそ、何者にだってなれる」
「どこにだって行けるの?」
少女は尋ねる。
「行けるよ。天国にも地獄にも。今度こそ生まれることだってできる」
「でも人間は、過ちを繰り返すでしょう? 繰り返さなければあたしたちはここにはいない」
先程見たものを少女は思い出す。
「そうだね。人間は過ちを繰り返す。人間は愚かだ。けれど可能性がある。学ぶ。これ以上過ちを繰り返さないために努力する」
いつの間にか彼女は女性の姿に戻っていた。
「そんな人間を実際に見てみたいから、自分でもなってみたいから、ここから出ていこうとしているのかもしれない。世界を見てみたい。ここは何も起こらないかわりに何もないから。そのことにようやく気付いた」
彼女の話を聞くうちに、少女も自分の考えがまとまってきた。
「あの日あたしはもうすぐ生まれるからと、病院に向かっていたの。おかあさんとタクシー乗って。あと少しで着くというところで巻き込まれた。あたしだけが助からなかった」
少女は女性を見上げる。
「あたしもあれから世界がどうなったのか見てみたい。見られる保証はないけど。おかあさんにも会ってみたい。実際に会えるかどうかもわからないけど」
「絶対なんてない。でも挑むことに意味があるのかもしれない」
女性の言葉に少女は頷く。
「よし。じゃあ、行こうか」
その言葉を待っていたかのように暗闇のなかに一筋の光が差した。少女が見た初めての光。
二人は手を取り合い、その光に向かって歩いていく。
生まれなかった君たちは、これからどこへ行くのだろうか。
近づくたびに光が段々と広がってくる。
あの日生まれてこられなかった少女は、世界を見るために旅立っていく。
最後に少女が目をすぼめながらまばゆい光のなかに見たのは、十人の人影だった。
(了)