あなたの言葉に溺れたい

 自らが勢いよく息を吸う音で、ララは目を覚ました。いつの間にか少し眠ってしまっていたらしい。身体が今にも椅子から落ちそうになっていたので、腕を使って座りなおす。
 その拍子に、かけられていたブランケットが肩からずり落ちた。手にした見慣れた病院のそれは、ルーカスの具合を見に来た看護師がかけてくれたようだ。
 斜め上を見ると点滴が交換されていた。おそらく、いつもの若い男の子だろう。あとでお礼を言わなければ。
 ほぼ毎日ルーカスのお見舞いに来ているので、医師や看護師たちとはすっかり顔なじみになっている。件の男の子は――もう二十代後半らしいが、ララからすると十分に男の子と言える――再会した頃のルーカスに似て、静かな目で周りを見て、よく考えてから話をしていた。
 ルーカスを見ると、彼は目を覚ましていた。
「おはよう、ルーカス。何の夢を見ていたの?」
 陽気にララはルーカスへ話しかけるが、反応が返ってくることはない。元気なときの姿を知っているだけに、筆舌に尽くし難い。

「こんなことになるなら、一緒になればよかったかな、僕のL」

 入院してしばらくしたある日、ルーカスが弱々しい笑みを浮かべながら言ったその言葉が、ララの脳裏に浮かぶ。
 ふたりともずっと、心のなかでわかってはいたが、なんとなく避けてきた話題だった。
「前にも言ったけれど、私はもう誰とも一緒になる気はないのよ。この関係性にはっきりとした名前なんてつけなくても、それで私たちの関係が変わることはないでしょう?」
 ルーカスの髪をツーツーと撫でながら、ララは諭すような口調で優しく話す。
「それに、私はただ、月を眺めているだけで満足なの。目の前に、どこへも行かない月があるって、わかっているだけでいいの」
 ルーカスは、とても大事なことを打ち明けるような声音で言った。
「ああ、そうだね、ララ。僕もだ。太陽はどこにいても、あまねく世界を照らしている。それを、独り占めしてはいけないね」
 最初で最後の言葉遊びのような掛け合いは、それで終わりだった。

 ララはふっとカーテンが開けられている窓の外を見る。歳を重ね身体の節々が時折痛んでくるが、目と耳だけは加齢に伴って悪くなることはなく、よい状態を保っていた。
 ルーカスの病室から、たなびく旗は、よく見えた。
 町旗は、現町長――前の副町長――が今は掲揚している。
 この町がある限り、あれは太陽に焼かれ雨風にその身を晒しながらも、町民たちを見守り続けることだろう。
 旗を見ているといつもルーカスを思い出す。フラッグポールのようにまっすぐで何事にも芯が強かったが、それでいてときに旗のようにゆらゆらとして、周囲との調和を保たせていた。
 こんな、雲ひとつなく太陽が照りつけるだけの日は、彼と再会したときのことを思い出す。

   *

 ララはそのとき、自宅で遅めの朝食を作っていた。
 玉ねぎをみじん切りにする。目がしみて涙が出てきたのでタオルで拭う。次によく洗い水気を拭いたジャガイモ、ソーセージと豚肉もサイコロ状に切る。それからフライパンにバターを敷き、切った材料をそれぞれ塩と胡椒で炒める。少しだけ、味見と称してつまみ食いをする。うん、おいしい。少し作りすぎた気がするけれど、明日また食べればいいかと思い、炒め終わったそれらを二枚のお皿に盛り付ける。空いたフライパンで目玉焼きをひとつ焼く。今日は少し半熟にしよう。焼けた目玉焼きを、先ほど盛り付けたお皿の上にひとつ乗せパセリを添えれば、完成だ。
 おいしそうな匂いに、早く欲しいとお腹が主張する。さっそく食べようとしたそのとき、来客を知らせるインターホンが鳴った。
「はーい」
 名残惜しいがララは玄関へ行く。このアパートメントは古くて、壁は薄いしドアは開けるのに少しコツがいる。
 ドアを開けると、外に背の高い男性が立っていた。
「昨日、隣に引っ越してきました、グルーバーです。よろしくお願いします」

 まるで、鏡を見ているかのようだった。いつかの自分の姿を映し出す鏡を。

「私は、オルソンです。ララ・オルソン。こちらこそ、よろしくお願いします。……あの、違っていたらごめんなさい。もしかして、ルーカスじゃない? あなた、ルーカス・グルーバーでしょう」
 自信がなかったけれど、半ば確信を持って目の前の男性に尋ねると、彼は相好を崩した。
「やっぱり、君だったんだね、ララ。昨日、引っ越し作業中に見かけてね。雰囲気でもしかしたら……って思っていたんだけど。よかった、また君が隣で」
 ルーカスは、最後に見たときと容姿が変わっていた。それもそのはず、ふたりともあの頃はまだ十代で若く、今はもう三十代も前半だった。

「久しぶりだね、L。元気だったかい」

 懐かしい呼び方を十数年ぶりに耳にして、子どもだった頃の記憶が一瞬蘇った。互いに名前のイニシャルが同じだから、ララたちは時折そう呼び合っていた。
 元気だと伝えようと口を開きかけたとき、ララのお腹が鳴った。
 顔から火が出る。まさかこのタイミングで、十数年ぶりに再会した人の前で、自分のお腹が鳴るとは。
「――ご存じのとおり、私は元気。あなたは?」
「元気だよ。僕のお腹が鳴ったかと思ったよ、実はまだ何も食べていなくてね」
 笑いを含んだ目と声でルーカスは答えた。
 それをきっかけにして、十数年空いた距離が縮まった気がした。
「あなたさえよければ、今から私の家で、ご飯を一緒に食べましょう」
 いいのかい? と彼は片眉を上げた。
「少し作りすぎちゃったから、食べてくれると嬉しいの」あなたの口に合うかわからないけれど、とララは言いながら、月のように優しい人を家のなかへ招き入れる。
 幸いにして、作った料理はまだ冷めてはいなかった。
 ルーカスの分の目玉焼きを作り、並べていたお皿のひとつに盛り付け、ふたりで食事をした。
 食事のあとはルーカスが入れてくれたコーヒーを飲みながら、これまでの来し方について、空いた隙間を実際に埋めるかのようにたくさん語り合った。
 ルーカスは語る。進学のためにこの町を離れて、建築士になる勉強をし資格を取得。卒業後就職し、経験を積んだのちに、数年前独立したそうだ。この町で仕事の依頼があって帰ってきた、などと話した。
 次にララが語る。仕事でこの町に立ち寄った人と結婚して町を出たものの、三年で失敗しその後町に戻ってきたと話した。たくさんの理由が重なった結果だけれど、家にいることを望むかつて夫だった人と、外で働きたかった自分とでは、たった三年でも持ったほうだろう。若気の至りだったと、今では思っている。
 過去にやっていた色々なことが役に立ち、今は様々な場所でそれを活かす仕事をしていて、それが楽しいしもう結婚はこりごり、と肩をすくめながらルーカスに話すと、彼は笑った。
「僕もだよ、仕事が恋人って感じかな。まだもうひとつの夢も叶えられていないしね」
「町長になるって言っていた話?」
 ルーカスがコーヒーを一口飲む。
「覚えていてくれたんだ。そう、今は本業に集中する時期だと思って、充電中および準備中だけどね」
「何か手伝えることがあるなら、言ってね。前に言ったでしょう、応援するって」
「ありがとう」
 ララは、カップに残っていたコーヒーを飲み干す。
 ややあって、ルーカスは隣へ帰って行った。
 帰り際、次の休日に散歩がてら町を案内してほしい、とルーカスに頼まれた。この十数年で変わったものが何か知りたいから、と。
 あのときのルートをもう一度辿ろう、とララは思った。
 変わらないものもあれば、変わったものもある。肉屋や魚屋は食料雑貨店としてひとつになり、公共施設は無くなったり、新しくできたりしている。
 変わらないものの筆頭としては、やはり町旗だ。フラッグポールは、老朽化により新設されたが、それでも変わることなく旗は毎日掲揚されている。
 変わらないものは、もうひとりいた。
 ララは、さっきルーカスがくれたオレンジ色のガーベラを見つめる。テーブルに置いているだけだけれど、周りを明るく照らすように咲いていて、とてもきれいだ。
「変わらないものは、私も同じか」
 ララは苦笑し、椅子から立ち上がり、ルーカスがいる側の壁へ歩いて行く。
 そして、昔もよくやっていたように壁越しに合図を送る。トンツートントン、と。
 すると、返事がきた。ララは再び指でリズムをつけて壁を叩く。
 今日、夕食も一緒に食べましょう、と。

   *

 ルーカス・グルーバーは、薄れゆく意識のなかで思っていた。
 ひとりの例外もなく、人間はいずれ死に至るが、それに赴く瞬間は一体何を思っているのだろう。何を考えているのだろう。夢を見るのか。自分の人生を回想し、走馬灯を見るのか。
 いずれにせよ、愛しい人に永遠の別れを告げなければならない。それはとても、悲しいことだ。どうしようもなく。
 ああ、愛しい人が泣いている。自分の手で触れて、慰めることができないのは悔しい。まだ一緒にいたかった。どうか、泣かないで。心配しなくても、きっとまた会えるさ。だからそれまで待っていてほしい――。

 チャイナ・アスターが咲いた日に、この町の町長であったルーカス・グルーバーのために半旗が掲揚された。


アンソロジー光』(2019)寄稿作品

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